役員インタビュー

INTERVIEW

安藤 聡美

2023年12月からメディカルグローンの取締役に就任した安藤聡美さんにお話をうかがいました。長年の経験から見えてきたものは、人とのつながりの大切さ。小手先の技術ではなく、メディカルライティングの本質を学ぶことが、ライターとしての成長につながると安藤さんはおっしゃいます。人との出会い、人の育成を大切になさる安藤さん。メディカルライターとしての約25年間の足取りと今後についてお話しいただきました。

恩師との出会いをきっかけに

ー 医療分野に進まれた理由は?

私の場合、なんとなくこの道に入ったという方が正しいかもしれません。最初から医療に強い興味があったわけではないんです。大学進学にあたって、理系に進もうとは思っていました。その中でも、卒業後の選択肢を考え、それほど深く考えずに薬学部に進みました。大学卒業後は、病院薬剤師や薬科大学で助手として働いていました。具体的に仕事として「医療」にかかわるようになったのは、30代前半で製薬会社に就職してからです。

ー どうして製薬会社に?

恩師との出会いが大きいと思います。 社会に一度出た後、大学院に入りました。そのときの指導教官が生物統計の専門家だったんです。先生がいろいろな製薬会社の統計アドバイザーをされていたおかげで、製薬会社の仕事について改めて知る機会を与えてもらったように思います。実際に、先生の紹介で、簡単な面接だけで製薬会社に就職することになったんですよ。それから定年退職するまで、ヨーロッパ系、アメリカ系、日本系の4つの製薬会社に勤めました。

ー その後、すぐにメディカルライティングに進まれたのでしょうか。

いえいえ。先の教授の紹介もあってか、生物統計の専門家でもないのに最初は統計解析関連の部署に配属されました。

そこで仕事をやっていくうちに、解析結果の報告書、総括報告書や論文を書く機会も出てきたんです。承認申請に向けて短時間で文書を仕上げなくてはならない中、当時は会社に文書のテンプレートや前例も、事前のスケジュール確認もありませんでした。今思い返しても、非常に大変でした。同時に、なぜかとても楽しかったんです。どうしたらこういう仕事を専門にできるだろうと考え始めました。

当時勤めていた会社では、フランス本社にメディカルライターがいました。しかし、日本支社にはメディカルライティング専門の部署はなかったんです。そこで、米国系の製薬会社に勤めている友人に相談してみました。すると、友人の会社では私が言っているような仕事をしている人が日本支社にいる気がすると言うんです。彼女が社内で聞いてくれたようで、翌週には友人の会社の人事部の方から自宅に電話がかかってきました。「一度面接に来ませんか?」って。 面接に行くと、その会社にはメディカルライティングの専門部署があることがわかったんです。ここなら自分のやりたい仕事ができると思い、すぐに転職を決めました。今から25年以上前の話です。当時、日本でメディカルライティングの部署があったのは、私が転職した米国系の会社を含め3社ぐらいだったと思います。日本ではメディカルライターという存在がまだほとんど知られていなかった頃です。

助走を経て、本格的にメディカルライティングの世界へ

実際にメディカルライターとして働いてみていかがでしたか?

苦労の連続でした。

その米国系の製薬会社には約2年半いました。自分にとって「メディカルライターとしての助走期」とでも言えるような時期です。当時、非常に成長スピードのあった会社で、日本支社は米国本社からの要請と強い圧力のもとで仕事をしていました。つまり、何をするにしても米国本社側に主導権があったんです。例えば、日本で承認申請用のドキュメントを作るときは、英語に翻訳し、内容を米国側に逐一報告する必要がありました。会社としての主張、薬剤の有効性、安全性のポイントは、米国側の承認を得ないと前に進めませんでしたから。

非常に忙しく、翻訳を外注する時間もなかったため、文書のいよいよ最終化という時点では私が文章を書いている横に同時翻訳者が座っていました。そして、その隣にグローバルのリーダーがいるような形です。私が書いたものを声に出して読むと、隣にいる翻訳者が英語に通訳してくれます。こちらの書いたものに対して、グローバルの担当者が「OK」と言ったり、「いや今のはこう直せ」とその場で言ったりするわけです。それを今度はその場で日本語にし、担当者に再度説明し、向こうが直せと言えば直す。その繰り返しで、頭が変になりそうでしたね。翻訳や通訳時に細かいニュアンスが伝わらないときもあり、なんかちょっと違うんだけどなと思いつつも進めなければならないときもありました。心身ともにボロボロになるぐらい仕事をしたので、いつまでここにいられるだろうかと悩み始めた頃でもありました。

大学院時代の恩師に相談したところ、日本の某製薬会社がメディカルライティングの部署を立ち上げるので、その責任者をやらないかという話を頂きました。専門家としてというよりも、マネージャーとして部門マネジメントもしながらという条件でした。この2年半ほどメディカルライティングの真似事のような仕事はやったし、できるかどうかわからないけれど、やってみようと思ったんです。2000年の話です。これをきっかけに、より本格的にメディカルライティングにかかわることになりました。結果的に、このときの私の転職先は、メディカルライティングの部署を国内で最初に立ち上げた製薬会社になりました。人生には「タイミング」ってあるんですね。

具体的な勉強法、ライターとしてどのように成長を?

仕事をしながら手探りで勉強するしかありませんでした。その中で人とのつながりが成長を助けてくれました。

今でこそ、教育セミナーやメディカルライティングの講座は山のようにありますが、2000年当時は全くなかったんです。そのため、誰かについて教えてもらうなんて機会はありませんでした。自分でやるしかないんです。米国系の製薬会社に入ったときは、何もわかっていない状態でしたから、総括報告書や承認申請資料を見様見真似で作り始めました。とにかく、仕事をしながらスキルを身につけていく形でしたね。

私にとっての大きな転機は、2001年に発行された医薬品規制調和国際会議(ICH)-M4 コモン・テクニカル・ドキュメント(CTD)ガイドラインです。これまでの承認申請のやり方と全く異なる新たなフォーマットでCTDを書かなければいけなくなったんです。製薬業界にとっても大きな転機になりました。今までの承認申請のやり方では全くだめで、専任の人を置かないと太刀打ちできないぐらい大変な仕事でした。質的にも量的にも。そのため、私が転職した日本の製薬会社はメディカルライティングの部署の立ち上げを決め、担当として私が呼ばれたというわけです。

「新たなフォーマットで申請資料を書く」と一口にいっても、前例がありません。ガイドラインを1行ずつくまなく読んで、ここはこう解釈したらいいんじゃないか、今担当中のプロジェクトに当てはめるとこうなんじゃないかと試行錯誤しながら承認申請資料を作っていきました。周囲も巻き込んで、ドキュメントレビューのシステムも整備しました。スケジュール管理も含めて誰に何をしてもらうとか、どれぐらいの人数が必要かなども考えながらやったところ、新参者の私を支援してくれる人もたくさんいて、結構うまくいったんですよ。結果的に、日本でCTDを最初に提出するという大業を成し遂げることができました。すると、「一体どうやってプロジェクトを進めたんですか。教えてください」と他の会社から声がかかるようになりました。自分で言うのも何ですが、気が付くと名前が結構知られるようになっていたんです。それからは、教育セミナーや講演会の要請も頂き、これまで人に教えてもらった経験がなかったのに、自分が教える立場になりました。指導する立場になると、自分はその何倍・何十倍も勉強するんですよね。また、教育セミナーを一緒に運営する人たちとの議論を通して、私自身多くのことを学びました。振り返ると、自分でいろいろ考えて動いてきたというよりも、人とのつながりを通して成長するチャンスを頂いたように思います。

人とのつながり、縁に支えられて

ー 当時を振り返って思うことはありますか?

いろいろな人に支えられて今の自分があると思います。

最初に勤めたフランス系製薬会社をはじめ、その後2000年に移った日本の製薬会社とのご縁も恩師から頂きました。後者は歴史ある大手の国内製薬会社で、その頃は銀行のような制服がありました。入ってみると管理職はほぼ全員男性で、女性は私ともう一人年配の方だけでした。ですから、メディカルライティングという聞きなれない部署のゼロからの立ち上げに対しても、女性の管理職を外から迎えるという前例のない人事に対しても、内部では相当な反発があったのではないかと勝手に想像しました。恩師の言葉に二つ返事で行ったものの、私自身、戦々恐々でした。一方で、メディカルライティング部署の日本で初めての立ち上げ、国内最初のCTD提出など、いずれも日本でまだ誰もやっていない仕事をやり遂げれば、とりあえず文句は言われないだろうと思ったんです。元来、新しいことをやるのが大好きな性分も大いに手伝いました。

その後もさまざまな出会いと機会に恵まれた環境が、メディカルライティングをやっていく土台作りになったと思います。人を育てていく大切さについて恩師から常々言われていたので、ライティングと教育と両軸での活動を続けました。製薬会社でのメディカルライターとしての仕事だけでなく、業界でのメディカルライティングの専門性と認知度の引き上げと、全体的な底上げが自分の役割だと自覚するようになりました。ちょっと偉そうですけどね。

教育セミナーは、設立した2001年から20年以上続いています。大変でしたが、千人以上の受講生を輩出できたことはよかったと思っています。全ては恩師のおかげです。先生は先を見通す力があり、25年以上前の時点ですでに、日本の臨床開発、臨床試験の中で足りないもののひとつがメディカルライティングだと認識されていました。恩師を含め、これまでに出会った人たちのおかげで今につながっています。

ー メディカルライティングの面白さ、難しさとは?

さまざまな専門部署の方々と広く関われること。それが面白さでもあり難しさでもあります。

メディカルライターは、単独で仕事をする場面はほとんどありません。生物統計や薬事などの専門家と一緒に、プロジェクトの中の一員として仕事をします。文書作成は、サブジェクトエキスパート(医療専門家、生物統計等)とライティングエキスパート(メディカルライター)が上手く融合して、初めてよい成果が得られます。つまり、メディカルライターはユーティリティプレイヤーのような役割を担っているとでも言えばよいでしょうか。

れぞれの専門家の中で使われている難しい言葉や内容を自ら咀嚼してわかりやすく伝えるためには、間に立って全ての人の言いたい要点を取りまとめる必要があるわけです。プロジェクト全体としての主張をうまく文章化でき、「こういうことが言いたかったんだ、ありがとう」と言われると、ああよかった! と思います。

逆に、それぞれの専門家の主張の調整、自分自身の理解の至らなさを含め、難しい部分はあります。メディカルライターは、統計や薬事や臨床薬理、またはがんや高血圧症などの各医学領域の専門家でもありません。ですから、専門家たちの考えをひとつにまとめるにしても、内容について全くチンプンカンプンでは務まりません。それぞれの専門分野をある程度理解し、内容をつなげていくわけですから。プロジェクトごとに、すごく深いレベルまでではなくとも、自分がコンテンツを理解し要点を押さえて伝えられるぐらいには内容を理解しておくべきです。メディカルライターに「物書き」を超える役割が求められる所以はここにあります。そのため、非常に短時間でさまざまな要素を学ばなければならないという厳しさがあります。

ー 各領域の専門的な内容を短時間で理解する秘訣は?

特に秘訣はありません。仕事をする中で経験的に身についてくるのだと思います。

標準的なガイドラインや関連資料を短時間で読み、文書の目標や最終ゴールを理解し、どこまで自分が理解しておけばいいか、押さえておかなければいけないポイントはどこかを知る力は経験的に何となく身についていきます。企業にいると、限られた準備時間しかありませんから。お尻が決まってるので、効率よくやらなければなりません。長い間やっていると、ポイントがだんだんわかってきます。そのため、次々と異なる分野の仕事が来ても、それほど苦にはなりません。

ー 当時と今でのメディカルライターのあり方、他の部門との関係での変化は?

基本的には今も昔も変わりません。

製薬会社の中で、メディカルライティングは今も昔も主力部門ではないと思うんです。主力部門というと、プロジェクトマネジメントや薬事、臨床開発の先端をやっている人たちになりますよね。メディカルライティングはディシジョンメイキングをする部署ではないわけです。そういった面では、今も昔と変わっていないでしょう。 一方で、以前と比べ、メディカルライターが開発戦略に関与できるようになってきました。メディカルライティングは、試験が終わった後にその結果を総括報告書にまとめ、承認申請プロセスの中では全試験の結果をCTDにまとめる、つまり開発の最下流の仕事です。しかし、最近では、開発の方針を決めたり戦略を考えたりという、いわゆる上流の仕事にも口を出せるような状況になりつつあります。これは、メディカルライターの認知度、専門性が上がってきたからだと思うんです。メディカルライターは、これまでにいくつもの薬剤の開発にかかわり、承認申請の成功例も失敗例もたくさんみてきている人たちです。つまり、経験があり、戦略に繋がるノウハウを持っている事実が認知されてきたのかなと感じます。メディカルライターのキャリアプランという点では、メディカルライターをやっていた人が、それまでの経験を生かして、今度は薬事や開発などのポジションを得てキャリアを積んでいく事例もたくさんあります。

ー ライターとしての強みは?

もともと文章を書くことが大好きでした。それがひとつ。もうひとつは、伝えるべき内容やポイントを比較的短時間で把握し、文章にできる能力です。後者はこれまでの経験の中で養われてきた力だと思います。

それから、マルチプレイヤーでいられることでしょうか。直近まで、がん専門病院で医師・研究者と一緒に仕事をしていました。企業とは異なり、病院には臨床開発や薬事の専門家がいませんから、ライティングだけではなく薬事のような交渉事や戦略立案など、何役もこなす必要がありました。メディカルライターをやってきたからこそ、アカデミアでもマルチファンクショナルな活動ができたと思います。

メディカルライターは、ユーティリティプレイヤー、マルチプレイヤーでもあると個人的には考えています。そんな風に働くのは嫌だという人もいるかもしれませんが、私はむしろマルチファンクショナルにやりたいタイプなので、それもある種の強みかもしれません。

ー レイサマリーや患者さん中心のライティングについてどうお考えでしょうか?

メディカルライターの役割が広がってきていると思います。 メディカルライティングの基本は、「読者は誰か」に尽きます。情報の受け手の的確な認識がキーポイントです。申請文書はPMDAの審査官が主な読者で、レイサマリーは患者さんや患者さんの家族、あるいは一般市民が読者です。対象読者により、伝えるべきコンテンツや情報の出し方や文書の構成も当然変わってきます。申請文書のライティング(レギュラトリーライティング)をずっとやってきた人が、全く異なる読者に向けたレイサマリーを作っていくためには、やはりそれなりに勉強が必要です。申請文書を普段書いている人なら臨床試験の基本はよくわかっていますから、情報の正確な伝達はできるはずです。しかし、「伝え方」が問題です。そこをどう学んでいくかです。今ではレイサマリーもだいぶん標準化されてきており、メディカルライターの貢献できる分野だと思います。ただ、メディカルライターだからレイサマリーが書けるかというと、それほど簡単ではありません。ポイントをきちんと押さえて、勉強した上でやっていかないといけません。レイサマリーを含めた患者・市民向けの文書ライティングもひとつの専門分野ですから。

ーメディカルライターを目指している人たちを見ていて思うことは?

最近は、受け身な人が多いですね。

教育セミナーを受けてさえいれば、メディカルライティングの仕事がうまくできるようになるだろうと思っているような。もちろん、全員ではありませんが。今は、各社にここはこういう構成でこんなふうに書いていけばいいというテンプレートがあります。また、自分で考えなくても、内容や意味が例えわからなくとも、こう書けばいいというサンプルが何百、何千とあります。私がメディカルライターを始めた25年前は、そんなものはありませんでした。今は、スピードや効率を求められるため、仕方がないのかなとは思います。とにかくアウトプットする、ノウハウは教育セミナーなどで教えてもらうという形ですね。ただ、それだけだと、メディカルライティングの醍醐味、つまり何かを作っていくワクワク感や考える楽しみは経験できないかもしれません。

もちろん、置かれた環境の大きな違いも理由としてあるでしょう。我々がメディカルライティングの仕事を始めたときと今とでは全く違いますから。これはどんな仕事でもそうでしょう。パイオニアとして仕事をしてきた人と、もうできあがった場所で始める人とは環境が異なりますよね。

今はお金さえ出せば、情報が手に入ります。それがいいかどうかはわかりませんが、楽しいところを取りこぼしてるんじゃないかと私なんかは心配してしまいます。ただ、これはそれぞれの方の仕事に対する向き合い方の違いです。とにかく早く仕上げて自由時間を確保したい方は、専門性を磨くよりも仕事の効率的な処理に価値があると考えるかもしれませんから。

ー効率的というと、最近の生成AIの台頭含めメディカルライティングの今後はどうなるでしょうか?

生成AIについてはド素人で、5年後はどうなっているかわかりません。

メディカルライターの一番大事な役割は、作成した文書によって、伝えるべきコンテンツが正しく適切でわかりやすく読者に伝えられているかの最終的な決定です。現時点ではその判断を生成AIに必ずしも任せられないと思います。文章自体のファーストドラフトは確かに生成AIが作ってくれるかもしれませんが。しかし、生成AIにもきっと得手不得手があって、新たな内容を考え出す作業はしないと思うんです。今あるものから確率論で次に来る単語・文章を作り出すわけですから。今後、メディカルライティングの仕事のあり方や役割は若干変わってくるかもしれませんが、コンテンツおよびその表現方法の適切性を最終的に判断するという重要な役割は残ると考えています。

ー安藤さんのご趣味は?

野村さんのようにオーケストラや庭仕事など多趣味だといいのですが、どちらかというと私は仕事ばかりしてきたので……。 美術館めぐりが好きです。特に明治末期から昭和初期の日本画。ジャズも好きで、以前はよくライブを聴きに行っていました。最近は、先輩に連れられてオペラを観に行っています。例えば、ニューヨークのメトロポリタンで公演したオペラを東京でも上映するという形のものも観に行きますし、生のオペラもよく観ています。音楽は基本的に好きですね。

人を育てる、人が大事

メディカルグローンで、これから伝えていきたいことは?

メディカルライターとしての仕事の本質です。

私自身まだまだですが、プロのメディカルライターとしてのあり方や重要性を皆さんと一緒に考えていきたいと思っています。小手先のテクニックだけで成果物を効率よく作ろう、といったノウハウではなく、仕事として何が大事かを伝えていくことを目指します。

4つめのヨーロッパ系の製薬会社には15年おり、そこでもメディカルライティングの部署を立ち上げました。その部署では何人もの優秀なメディカルライターを輩出しました。私が育てたというのはおこがましく、優秀な人が集まった結果にすぎません。私自身、具体的な書き方を指導したというより、プロのメディカルライターとして何が大事かを伝えてきたと思うんです。もちろん、成果物のレビューや、細かいフィードバックはします。しかし、それ以上に、仕事への向き合い方や、伝えるべき内容として大事なポイント、そのために自分が学ぶべき課題について、結構うるさく言ってきました。自分がかかわっている勉強会にも連れ出していました。安直にテンプレートに沿って書いてればいいという姿勢ではなく、ライターとしてのあり方ですね。仕事を通してそういった考え方を示してきたように思います。自分で言うのは少し恥ずかしいんですが、「安藤さんのところでやっているメディカルライターさんは、優秀な人が多いですね」、「本当に素晴らしい人が育っていますね」と他社から何度か言われたことがありました。自分が書いたものを褒められるのも嬉しいですが、自分が育てたライターに対してそんな風に言ってもらえたときはとても嬉しかったですね。

「人を育てよ」と常々言っていた恩師の言葉を少しは実践できたかなと感じた瞬間でした。私が後進をうまく育てていると恩師が褒めていた、と聞いたことがあります。人づての話とはいえ、このときには飛び上がるほど嬉しかったのを覚えています。

人の大切さは、仕事をしているとわかります。自分一人では何もできませんから。自分でチャンスを見つける努力も大事ですが、基本的には人からチャンスを与えてもらえる場合がほとんどです。逆に言えば、チャンスを与えてもらえるような人になろうという意識こそが大事だと思います。チャンスは限られているので。恩師から学んだことのひとつとして、また、自分の経験からも、「人に伝えていくこと」が何より大切だと実感しました。そういう意味で、メディカルグローンで取締役としてお世話になろうと決めたのは、片岡さんの言う「心と技の伝承」という理念に共感したからなんです。是非一緒に仕事をしてみたいと思いました。ちょっとすごくかっこよく、偉そうに言っていますが。人との出会いは本当に大事だと思っているので。

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